私の正体を知れば統合失調症も理解出来る~受動意識仮説~

統失について

こんにちは。

真人生探求家のゆうきです。

今回のテーマは「私と統合失調症」についてです。

統合失調症になると自分が自分でなくなる様な体験をします。

まるで自分が何かに操られている様な感覚を受けるのです。

これは統合失調症になることで研ぎ澄まされた感性がもたらす一種の「氣付き」によるモノだと私は考えています。

どういうことかと言いますと、一般に人間の意識というのは本来一つの大元があってそれが私(司令塔)の役割をしていると考えられています。

しかし、受動意識仮説によると人間の意識は複数の情報伝達回路によって創り上げられ、それに対してただただ反応しているに過ぎないと言うことです。

簡単に言えば、内面に複数の小人が存在していて、その小人同士が集まって私の反応を決めると言ったような感覚です。

つまり、私が形成される前に複数の小人が全てを決めていることになります。

この仮説によれば私は「司令塔」ではなく、ただの「観察者」に過ぎないのだそうです。

私の全ての反応や行動を決めてるのは私自身ではなく、複数の小人だったのです。

このことから統合失調症における誰かに操られている感覚というのは、神経が研ぎ澄まされた結果複数の小人によって何もかも決められている感覚を受けるのだと思います。

つまり、統合失調症における感性というのは単に病気で片付けて良いモノではなく、「私の正体」を突き止める上で非常に役立つ情報を与えてくれるのだと私は考えています。

統合失調症を単に「脳内物質の異常事態」と片付けて、それ以降の考察が思考停止状態になってしまっていては勿体ないのです。

私は病気の症状を「脳内物質の異常事態」だけで片付けてしまうことにずっと違和感を感じて居ました。

これは全く論理的に破綻しており、思考停止と言わざるを得ません。

私の内にある好奇心を頼りにこの状況を打破すべく瞑想から得た気付きを元にこのブログを書き留めている次第でございます。

堅苦しい文章になりましたが、早速本題に入りたいと思います。

私の正体~昔の日本人は理解していた?~

先ほど説明した受動意識仮説を元に考えると、私とは「司令塔」ではなく「観察者」です。

「司令塔」の役割は複数の小人が担っています。

「では、その複数の小人が本当の私じゃないの?」

と思った方もいるかもしれません。

そもそも「私」という文字自体に誤りがあります。

「私」と書くと、私=個となります。

しかし、昔の日本人、少なくとも江戸時代、明治初期には「私」を「和多志」と書きました。

「和多志」を直訳すると「和を成す多くの志」となります。

つまり、和多志=個ではなく、和多志=複数なのです。

受動意識仮説では私=個という考え方が前提になっているため、私を単なる「観察者」で片付けてしまっているのですが、これに昔の日本人の感性を取り入れると、和多志=複数になり、内面の複数の小人を和多志と認識していたのです。

つまり、「私の正体」とは「内面の複数の小人」なのです。

ではこの複数の「司令塔」により決められたことを実行している「観察者」は一体誰なのでしょうか?

これが「意識」に当たります。

一見「意識=私」と認識しがちですが、本来「意識」とは私ではなく、ただの「観察者」なのです。

つまり、日本語において「ワタシ」という言葉は「意識」ではなく「無意識の複数の小人」を指すのだと私は感じて居ます。

日本語には「私」という意味を表す「自分」という言葉もあります。

「自分」とは「自らを分ける」と書きます。

分けるということは複数体です。

つまり自分=個ではなく、自分=複数なのです。

では自分とは何か?

これも複数の小人を指すのだと思います。

一人の人間には本来複数の「私」「自分」が居るのです。

そうなると、「解離性同一性障害」という病気もこれで説明が付きます。

「解離性同一性障害」とは言わば「多重人格者」のことです。

一つの体にいくつもの人格が存在していて、人格が入れ替わるごとに記憶もその人格に即した記憶になるというとても大変な病気です。

例として車を運転中に人格が入れ替わると、その表に出た人格は「自分がどこに向かっていたか思い出せない」のです。

これはまさしく「私=個」ではなく、「和多志=複数」の式を証明することになります。

おそらく、解離性同一性障害は複数の小人の連携が上手く行かず、小人同士の繋がりが途絶えた結果、全ての小人ではなく、極少数の小人によって形成された和多志なのだと考えられます。

小人単体にクセやパターンが組み込まれていると考えた場合、一人の人間に複数の仮面が存在していいることも納得がいきます。

いくつもの小人(クセやパターン)が集まって一つの人格を形成するのです。

それが「解離性同一性障害」ともなると小人の集まりが一つではなく、複数あることになります。

小人の集団がいくつも存在していて、一つの集団ごとに一つの人格が形成されるのです。

ここで言う「人格」とは「意識」のことです。

「意識=観察者」とすると「解離性同一性障害」には「観察者」が複数居ることになります。

さて、それではここまで説明してきた内容が統合失調症の方の一体何の役に立つのかということをこれからお伝えします。

私の正体を理解することで統合失調症も治る

私とは和多志であり、複数存在していることを説明しました。

それを理解することで統合失調症がどんな病気かを理解することが出来、この病気の本質をつかむことで病気を治すことが出来ると私は信じています。

「私が複数」だということを理解すると統合失調症の症状の謎が繋がりを見せるのです。

では、統合失調症の幻聴の仕組みを「私=複数」の式で説明します。

結論から言いますと幻聴は「複数の私の脳内会議」です。

普段小人同士が集まって会議する声が聴こえることはありません。

しかし、統合失調症になると小人同士の会議のまとめ役が居なくなった状態だと考えられます。

会議をまとめることが出来ないと「意志」を形成するのに時間がかかります。

そうするとあなたの「意識」が代わりに会議をまとめようとする現象が幻聴に変わるのです。

「意識」は本来「観察者」に過ぎないので、まとめることが出来ません。

しかし、会議のまとめ役が居なくなるとあなたの「意識」が「脳内会議」に向くのです。

そうすることで「脳内会議」を「観察(聴く)」することが出来るのです。

そうなると「幻聴(脳内会議)」が聴こえ、あなたの体は本来聴こえるはずの無い声に戸惑います。

その状態は「会議のまとめ役を探せ」というメッセージなのかもしれません。

ここまで仮に「まとめ役」が居るという前提でお話しましたが、「会議がまとまらない」と言い換えてもいいと思います。

「会議がまとまらない」ので「思考」もまとまらないのです。

そうなると「意志」が統一を図ることが出来ず、何をしたら良いかわからなくなるという状態に陥るのです。

その仕組みを理解した上で行って欲しいことがあります。

「自分探しの旅」をして欲しいのです。

「自分とは何か」「私とは何か」ということを過去の記憶から創り上げて欲しいのです。

もちろん症状が出ている状態ではそれは出来ません。

症状が収まった時にそれを行って下さい。

私はこの「自分探しの旅」をすることで「統合失調症」という病気と真摯に向き合うことが出来ました。

その結果、今では症状が収まり「寛解」するに至りました。

ここであなたに問います。

あなたとは一体何者なのでしょうか?

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