小さなありがたみを手動で感じると大きな愛が自動でやってくる

マインドセット

こんにちは。

真人生探求家のゆうきです。

辛い経験をして辛い想いをすると、人から素直に「愛」を受け取れなくなることってありませんか?

そうすると、嫌な感情だけを受け取って体のバランスが悪くなります。

では体に「愛」を受け入れるにはどうしたらよいでしょうか?

答えは簡単です。

それは、小さなことに「ありがたみ」を感じるということです。

長らく辛い想いをしている人で、前向きに生きようと頑張っている人は自然とやっているはず。

自分で小さな「ありがたみ」を見つけることはいわば「手動」です。

「手動」で行うと「ありがたみ」を感知する力が育まれます。

好き好んで行っているあなたの「手動の小さなありがたみ行為」が知らずのうちに「チカラ」を積み重ねているのです。

そしてその「チカラ」はいずれ大きな「愛」を生み出します。

大きな「愛」が「自動」でやってくるのです。

今回はその仕組みをわかりやすくお伝えしていきます。

大きな愛が自動でやってくる仕組み

「息を吸えること」

「息を吐けること」

「布団に入ること」

「蛇口をひねったら水が出ること」

「あたたかいシャワー」

「食べ物が豊富なこと」

など、些細なことにありがたみを感じるようになったら良い兆しです。

この時期は積み上げの時期で、ありがたみという「チカラ」を自分に蓄えている段階です。

その「チカラ」を「氣」と言います。

「氣」は「気」のことです。

「気」よりも「氣」の漢字を使った方があなたにメリットがあります。

その理由に興味がある方は下記の記事を見てください。

私は、以前から「感謝」こそが人間の最も深い感情だとお伝えしてきました。

しかし、最近になって「感謝する」ことと「ありがたみを感じる」ことは少し違うなと感覚的に思いました。

感謝とありがたみ

結論から言うと、「ありがたみこそが人間の感情の始まりではないか?」とそう思うようになったのです。

「感謝」は伝えるモノという教育を受けて来た私たちにとって、「感謝」とは「するモノ」だと認識しています。

だから「感謝」は伝えるが基本になっています。

辛い想いをしている人は「良い氣」がとても少ない傾向があります。

「氣」の観点から見ると、人間生活の中で「他人の言葉」から「氣」を分けて貰うことが必要なことです。

ですが、辛い想いをしている人は「良い氣」を受け入れることが出来なくなっています。

これでは「氣」は足りなくなっていきます。

そうなると人に「氣」を与えることが出来なくなります。

つまり、「氣持ち」を伝えることが出来なくなるのです。

なので、心から人に感謝できない人は「氣」が足りていない証拠なのです。

「感謝」対して「ありがたみ」は「感じるモノ」になります。

「感謝」とは違って、「ありがたみ」は「胸」に閉まっておくことが出来ます。

「氣」を出すのが「感謝」で、「氣」を蓄えるのが「ありがたみ」です。

「ありがたみ」は湧き出るモノではなく、自分自身の胸の中心に「集まる氣」になります。

「ありがたい」と思った人やモノから「氣」を少し分けて貰っているのです。

人間関係が上手く行かない人が人ではなくモノに「ありがたみ」を感じるようになるのは必然です。

なぜならば「人にありがたい」と心から思うことが出来なくっているからです。

言い換えれば人から「氣」を貰えないのです。

だから「モノ」から「氣」を頂くのです。

でもそれは、いいことでもあります。

「モノ」にしか「ありがたみ」を感じなくなってしまうことは「モノに対しての愛」を感じる力を育みます。

万物に霊が宿るならば、万物に「氣」は存在します。

量子物理学的に言えば、万物は「振動」しています。

「氣」の正体が「振動」なら、科学的にも「氣」は万物に宿ることになります。

つまり、モノに「ありがたみ」を感じる人は、万物から「氣」を貰えるようになっていくのです。

モノから人へ

万物から「氣」を分けて貰うことが出来るようになったら、「氣」を分けて貰えない「氣が合わない人」とは付き合わなくて良いという考えに至ります。

そうしていくうちにあなたは自分にとって本当に「氣が合う」人たちが見つかります。

自分の気持ちを素直に受け入れてくれる人たちです。

その人たちはかつて同じ苦しみを経験した人でもあります。

そういう人たちと関わることで、「人」から「ありがたみ」を感じることが出来るようになります。

その時に、あなたは「モノと人」の両方から「ありがたみ」を感じる力が自分に宿されていることに気がつくでしょう。

たとえ意識的に気がつかなくても無意識でちゃんと気づいています。

そうなった瞬間、あなたの胸に「大きな愛」がやって来ます。

それは、「ありがたみ」という「氣」から生まれた「普遍的な愛」です。

愛は2種類ある

愛は2種類あります。

それは「主観的な愛」「普遍的な愛」です。

まずは「主観的な愛」は「幻想」だという話をします。

「主観的な愛」は特定の人から感じ取ることができます。

「主観的な愛」とは自分の中だけで完結するモノです。

「主観的な愛」を感じるには理由が要ります。

「この人は失いたくない」という「執着や依存」は「主観的な愛」から生まれます。

「主観的な愛」は時に失うのを恐れます。

その理由がこの愛が「幻想」だからです。

「幻想」は自分の心次第でいかようにもできるモノです。

だから心が定まらない時は「主観的な愛」を失うのです。

次に「普遍的な愛」は「まこと」だという話をお伝えします。

私がこの記事で「大きな愛」と銘打ったのは「普遍的な愛」のことです。

愛とは本来「ありがたみ」から生まれる「氣」の一部になります。

「普遍的な愛」はこの世の全てです。

わかりやすく言うと、万物が感じたい「氣」になります。

「普遍的な愛」は「幻想」ではなく、実在する「まこと」になります。

特定の人と恋に落ちて、全てを包み込む「氣」も「普遍的な愛」を「凝縮」した「こと」になります。

モノではなく「こと」なのです。

言葉の「言」も昔は「事」と区別してませんでした。

「氣」を生み出すのを「こと」と表現していました。

「普遍的な愛」を生み出す「ありがたみ」も「こと」になります。

「ありがたみ」から「愛と光の氣」が生まれます。

ここで言う「愛」とは「普遍的な愛」です。

そして「光」はその人が放つ「輝き」です。

「光」も「こと」になります。

「光」や「愛」からは様々な「氣」が生まれます。

「ありがたみ」から生まれた「氣」は「生きる力」を暗示させます。

だから嬉しい「こと」なのです。

これは「生氣」と呼びます。

その反対に「死」を暗示させる「氣」は「不浄」とされていて、嬉しくない「こと」です。

「死」を暗示させる「氣」には「憎しみ、悲しみ、恐れ」などがあります。

モノや人が起こす「こと」から「ありがたみ」を感じることで、「生氣」が蓄えられて「愛」や「光」を生み出すのは必然です。

これが「大きな愛」を呼び寄せる仕組みです。

小さな「ありがたみ」を「手動」で行っている人はいずれ「自動化」されます。

「ありがたみ」の自動装置

「ありがたみ」を感じることこそが「生氣」を蓄える方法です。

私たちは普段は無意識の中で「ありがたみ」を感じています。

これが「ありがたみ」の自動装置です。

この自動装置が正常に機能することで、「生氣」を素直に受け取ることが出来ます。

「ありがたみ」の自動装置が壊れると、「自分には「生氣」を受け取る資格がない」と素直に受け取れなくなります。

そうなると「死」を暗示させる「不浄の氣」が入りやすくなります。

なので「ありがたみ」自動装置が壊れたら、「治す」必要があります。

その必要性を感じた人はもう実行しています。

小さな「こと」に「ありがたみ」を「手動」で感じ始めるのです。

自ら積極的に「ありがたみ」を感じることが「手動」なのです。

「自動」は自然と「ありがたみ」を感じることです。

「手動」で行っていくうちに、自動装置の仕組みを「潜在意識」が思い出します。

潜在意識とは無意識のことです。

一つ一つ丁寧に「手動」で行って来たわけですから、自動装置の「精密性」は以前よりも高くなります。

その時に「繊細な感情を持ちながら強い心を持つ」ということの両立が可能になります。

ここで言う「強い」の定義は「揺らがない」ことを意味します。

通常は、繊細な人は弱く、強い人は繊細ではありません。

この2つの両立(繊細さと強さ)は自動装置を「手動」で動かした経験をした人だけが持つことが出来ると考えています。

「繊細」なのに「強い」のです。

繊細な人のメリットは「人氣持ちが良くわかる」ということです。

「自分は「繊細さ」「強さ」が兼ね備えられてるなぁ」と思ったら、「手動」が「自動」になった証拠です。

そうなると「普遍的な愛」がやって来ます。

それまで「手動」で「ありがたみ」を感じる「こと」を心から楽しんでください。

あなたは結局「強く」なる宿命なのですから。

ここまで読んでくれてありがとう

からあなたに感謝します

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