ワンネスというスピリチュアルな体験

スピリチュアル

今現在これを書き留めている私はワンネス体験中です。

この感覚を忘れないうちに皆さんにシェアしたいと思います。

ワンネス:全てとの繋がりを感じる慈しみの感覚

ワンネスリアルタイム体験談

これを書いている少し前の2020年8月30日朝7時頃、深い瞑想状態で心の感覚を研ぎ澄ませ、その感情を言語化したりその情動をなぜ感じたのか自問自答していました。

以前から頻繁にそういうことを繰り返していたのですが、今回初めて自問自答の最終的な人生の答えを導き出しました。

それは、起きる全ての物事の意味はワンネスを感じるためにあるということです。

私は今回の自問自答の末に今まで未解決だったことを全て解決することが出来ました。

以前から自問自答していると「恥ずかしい」と感じる感情に全て繋がりました。

何を自問しても答えは「恥ずかしいから」という答えに導かれました。

私がこれまでにぬぐい切れてない最後の負の感情は「恥ずかしい」という気持ちでした。

それは何のために感じているの?と自問すると今までの自分は答えてくれませんでした。

それが今日やっとわかりました。

「恥ずかしい」という感情は、言わば少数派です。

大勢の人と同じならその感情は出て来ません。

少数派だからこそ変だと思われるのです。

少数派を強く意識することで、感じる感情があります。

それは疎外感です。

つまり、結果的に私が嫌だと思う一番強い感情が「疎外感」でした。

私は一人の時間が絶対に欲しいと感じていましたが、その理由もわかりました。

疎外感を感じることにフタをしていたのが理由でした。

本当は一人よりみんなと繋がっていたい。

そう感じていることがようやくわかりました。

それを理解するとワンネスの感覚に包まれました。

すると全てのモノが愛しく感じました。

人で例えるならまるで自分がお釈迦様になったような感覚です。

部屋の周りの物にも全てに愛が宿っていると感じ、私がこれまでに見てきた物や聞いたこと今まで覚えた全部、時間や空間、宇宙や死後の世界と繋がっている感覚です。

本当に全ては一つとしか言いようがない感覚です。

この感覚はこれを書き留めている今も感じています。

「本当にこんなことってあるんだな。」と疑問に思う時間も勿体ないような気がしています。

私は「魂を磨く」ことを人生の目標にしていますが、「それは何の為?」と言われれば今はこう答えます。

ワンネスをより長く感じられるためです。

これこそが全てです。

この感覚が一時的なものではなく継続的なものであればそれが「悟りの境地」だと確信しました。

私が今まで想像していた「悟り」とは全く違います。

これまでずっと「悟り」とは無の境地だと思っていたのですが、絶対違います。

「悟り」とはワンネスを感じ続けることです。

お釈迦様の微笑(みしょう)の意味がやっとわかりました。

お釈迦様は弟子たちの前で、近くにあった花をひねり上げうっすらと微笑みました。

全員がポカンとする中、一人の弟子だけその意味を理解することが出来ました。

そのことがきっかけでその弟子に後を継がせることになりました。

お釈迦様が花ひねり上げて微笑んだのは、何の意味もない全ての行動が愛しいものであると諭したかったのです。

これは私の推測ですが、死後の世界はワンネスに包まれていると思います。

死ぬ直前にこれまでの経験が走馬灯のように見えると言われていますが、全てはワンネスのためにあったことなんだよと教えるためにそうなると思います。

ワンネスの感覚になると全てのモノが私を祝福してくれていると感じます。

私も全てを祝福している状態です。

ここまで書いてきて、段々とワンネスの感覚が弱くなってきました。

おそらくお釈迦様の「悟りの境地」ように継続的なものではなく一時的なものなのでしょう。

でも不思議とそれを求める心がありません。

依存性はないのでしょう。

これから現実的な体験をしなさいと大いなる存在が教えてくれている感じがします。

とても貴重な体験でした。

感情的に書いたため、文章構成がちょっと雑な感じはしますが、あえてそのまま載せたいと思います。

追記~今現在思うワンネスについて~

私がワンネス体験をしてから一年以上たちました。

今思えばワンネスを体験したことによって死ぬことが楽しみになりました。

今すぐ死にたいとか思っている訳ではありません。

人生のゴールとして、最後に誰にでも訪れる「死」というモノの考え方が変わったのです。

「死」んだ後、私達はワンネスの世界へと導かれて行くと本氣で思える様になりました。

「死」に対する考え方が変わることで私は人生の最終目的を「死」と確認することが出来ました。

都市伝説業界では、「死なない人間」が現れる時代と言われています。

死ぬ前に自分の脳をコンピュータに移動させることで自らの肉体を捨て、機械と融合することでそれが可能になるそうです。

しかし、個人的にはもし死ねない人間になってしまったら、死後の世界を体験できなくなってしまうので「死」を選ぶと思います。

私に訪れたワンネスの意味は、そう言った「死なない時代」に向けたメッセージではないかと今はそう思います。

「目覚めよ日本人」と叫ぶ情報発信者が増えて来た今日この頃、一体「目覚め」とは何なのでしょうか?

具体的に説明できる人はどれだけいるのでしょうか。

説明出来たとしてもそれは自論に過ぎないのかもしれません。

これは私の自論ですが、「目覚め」とは「深い氣付きの連続」だと考えて居ます。

外部の情報ではなく、自分の内側の情報を元に「青天の霹靂」を起こすほどの氣付き。

それが「目覚め」と言わずして何と言えるでしょうか。

誤解して欲しくないのが、「目覚め」はゴールではなく始まりだと言うことです。

「目覚めたから後は楽して幸せな人生が送れる」ということではありません。

「目覚め」つまり「青天の霹靂」が起こった人の具体例を挙げると余命宣告された人達が良い例だと思います。

田坂広志さんという方は「死」を間際にして、色々な事を悟りました。

その人が言うに、人生を切り拓く為には5つの覚悟があるそうです。

当時死の病だった肺結核を瞑想で治した中村天風も「目覚めた」日本人の一人です。

彼も「死」を間際に色々な氣付きを得ました。

彼らはスピリチュアルなこととは全くかけ離れた人生を歩んでいた人です。

それが「死」を強烈に意識することでスピリチュアルに目覚めたのです。

ワンネス体験をしたことで「死」を目的とすることが出来た私にとって今一番大切なのが「挑む」ということです。

死ぬ前に色々なことに挑戦したいのです。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉と似たような言葉が私の地元の沖縄にあります。

それが、「まっくとぅそーけーなんくるないさ」という言葉です。

この言葉の前半部分の「まっくとぅそーけー」を直訳すると「まことをしておけ」という意味です。

「まことをする」というのはとても深い言葉で「誠実なことをする」という意味です。

ワンネスに興味のある方は人生を劇的に楽して変える方法が無いかと考える人も居るでしょう。

しかし、人生を劇的に変えることは出来ても、「楽して」変えることは出来ません。

不思議なスピリチュアル体験をきっかけに劇的に人生が変わった人も居ますが、それは決して「楽して」変わったのではなく、「まことをした」から変わったのだと思います。

「目覚め」を追い求めるよりももっと大切なことがあるということはあなた自身が一番良くわかっているのではないでしょうか。

ワンネス体験はとても神秘的で素晴らしい体験でした。

しかし、その体験をどの様に活かすかはこれからの人生の歩み方にかかっていると思ってます。

ワンネス、神や天使やハイヤーセルフ、守護霊などはあくまでも補助に過ぎないのです。

ワンネスを体験した人もそうでない人も、人生とは「自分の足で歩むモノ」だということを深いレベルで確信して欲しいです。

この記事があなたの心の何かしらの「氣付き」に関われたなら幸いです。

ここまで読んでくれてありがとう

からあなたに感謝します

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