人は誰でも罪を犯します。
罪の意識が強いと罪悪感に苛まれ、未来への希望を見出すことが出来なくなってしまいます。
その時に大切なことは、自分を許し、今の自分にフォーカスするという考え方です。
それは一時的に、罪悪感にフタをするという逃げる考え方ではありません。
罪を犯した自分を戒め続けるのではなく、罪を犯した自分を許し、人生をやり直すということです。
元々罪の意識のない人に対しての助言は私には出来ませんが、人は誰でも罪の意識を持っていると私は考えています。
許すという考え方は、時には他人から無責任な行動とみられます。
犯罪を犯した人が自分を許すことは、被害者にとって怒りや憎しみを増長させてしまうことにも繋がります。
それほど罪という意識は常に自分に付きまとうのです。
でも、自分を許すという行為は例え他人に無責任と言われようがこれから良心に従って生きていく為に必要なことです。
何故なら罪悪感に苛まれたまま人生を全うすることは、自分の犯した罪に対して良いアプローチの仕方ではないからです。
犯した罪に対しての良いアプローチの仕方は、自分が幸せに生きることです。
そして、周りを幸せにしてあげることです。
これがキリスト教で言うところの「懺悔(ざんげ)」に当たります。
被害者からしたらたまったもんじゃない考えになりますが、それが罪の本質だと私は理解しています。
私も以前は、罪深き人間でした。
罪の重さから逃れる為に現実逃避に走ったり、時には宗教に入ることさえも考えたことがありました。
毎日罪悪感に苛まれ、罪を犯した自分には生きる価値がないと常に考え、
「死のうかな。」
という独り言が癖になっていました。
でも、私が死んでも罪は消えることはありません。
そう考えた私は罪悪感に対してフタをしました。
あたかも自分には罪がないと偽って行動していました。
一時的には人生が好転したかのように思えましたが、それはその場しのぎの上辺だけの解決法に過ぎなく、根本的な解決法ではありませんでした。
自分自身を偽って生きている意識が何処かで爆発してしまうのではないかという感覚になりました。
自分のことを棚に上げて何を言っても説得力はありませんし、そんな自分に次第に気付き始めました。
ニュースで見かける犯罪を目にする時に、普通の人なら犯罪者に対して悪い印象を持ち、被害者に同情する感覚を持つのですが、私は犯罪者に対しても同情心が芽生えてました。
「この人はこの罪で一生幸せになることはできないのだろうか。」
そう考えるようになりました。
そこで私はキリスト教の懺悔について興味を持ちました。
神に許しを請う。
そこに辿り着くまでには、相当の罪悪感を感じなければいけないと気づきました。
つまり、神に許しを請う行為自体が今の自分の良心に従って行動し、自分を許し、人を愛し、幸せに暮らすことを自分に認めさせたいと誓う行為なのです。
ここで大切なことは、受動的な「願い」ではダメだということです。
「願い」ではなく「誓い」が神に許しを請うことの本質です。
「許してください。」
ではなく、
「これからは心を入れ替えます。」
と神の前で誓うのです。
そうすることによって自分の根本的な問題に働きかけることが出来ます。
罪の意識について重く受け止めながらも、前に進みたい。
例え被害者に許されなくても、その様な人を神は見捨てはしないだろうと思います。
いや、許すことこそ人に崇拝される神の価値だと信じます。
他人には絶対に許されなくても、神は許すのです。
もし神に許されることで、自分を許すことが出来て自分と他人を幸せにする人生をこれから全うした場合に、許す行為こそが罪を償う行為になるのではないでしょうか。
もちろん許されるから悪いことをしても良いという考え方は間違ってます。
罪悪感を強く感じて苦しみ生きて来た人間だけがその特権を得られると思っています。
私は今現在、自分の犯した罪に対して重く受け止め、人生を前向きに考えることに対して悪いことだとは思ってません。
それどころか、前向きに考えることが罪を軽くしてくれる行為だと信じています。
それだけ十分に罪悪感を感じて来たからこそ言えると思うのです。
人は一人では生きていけません。
必ず誰かの世話になって生きています。
そして必ず誰かに迷惑をかけます。
だからこそ、今この瞬間からは人の世話をし、誰かを幸せにしたいと思えるのではないでしょうか。
大切なことは今何を考え、行動しているのかということです。
過去の罪は消えることはないですが、自分を許すことで成長することが出来ます。
そんな私もまだまだ人に甘えながら自分に厳しく出来ない部分もありますが、少なくとも以前の私よりはるかに成長したと考えています。
人が誰でも納得するような行動が出来ているとは言えませんが、自分ではベストを尽くしていると実感しています。
有名なロックバンド、ブルーハーツの歌詞に
「聖者になんてなれないよ、だけど生きてる方がいい。」
という歌詞があります。
私自身も聖者になれるとは思っていません。
ただ、生きたいのです。
ここでの「生きる」という意味は、生物学的な意味ではなく「人として生きている実感がある」という意味です。
罪悪感に苛まれていた頃の私は死んでいたも同然でした。
何の生きがいも感じてなく、ただただ食べては寝ての繰り返しでした。
そんな私が人生を前向きに考えるようになったのは、自分を許すことが出来、今の自分に満足することが出来るようになったからです。
過去は過去の話として受け止めつつも、前を見て歩く。
そう思った時に罪を償う答えがわかって来ると実感しています。
もし、今あなたが罪悪感で未来が暗く感じているならば、そんな自分を許してあげて下さい。
そうすることで、自分自身を心から愛せるようになります。
あなたが犯した罪は消えません。
しかし、あなたは成長していくことが出来ます。
成長していく過程で、罪を償う答えが必ず見つかります。
ここまで読んでくれてありがとう。
心からあなたに感謝します。
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