日月物語 第一章 1話|儀式 – 麻と酒と

【日月物語】

日の心——
外へと発する、進む力。

月の心——
内へと向かう、見聞きする力。

その均衡を保っていたのは、
真なる”ひとつの心”だった。

いつの日か、
”ひとつの心”は忘れ去られ、
千の歳月が流れた。

「雪音、産まれてきてくれて、ありがとう」
母が優しく伝えると、
「産んでくれて、ありがとう…」
雪音は形だけの返事をする。
目は合わせずに、声だけが小さくその場に消えていった。
この村では、誕生日は感謝の日と呼ばれる。
今、生きていること。
当たり前のようで、奇跡のような、そのことに。
「お月様、ご先祖様、雪音のことを見守ってくださり、ありがとうございます」
その瞼の奥には、遠く離れた月の村の情景が、そっと浮かんでいた。
母は、日の光が照らすこの村で、
月を仰ぐ、たった一人の存在だった。
「雪音、早く仕度しないと、あがり様に怒られちゃうわ」
今日は、社で行われている儀式の日でもあった。
儀式は、この村の人々にとって、誰もが通る通過儀礼だった。
「あがり様って、なんだか気難しいから苦手なんだよね」
「巫女様に向かってそんなこと言わないの」
雪音は儀式の仕度を始めた。
社の奥に佇むあがり様の姿を想像すると、
雪音の背筋が、自然と少しだけ伸びていた。
「雪音も随分と大きくなったな」
父には、儀式を通して大人の階段を登って行く、雪音の姿が見えた。
身も心も、余計なモノを脱いで行くのが、儀式の通例だった。
「では、そろそろ行くか」
村人たちは誰も知らない。
この儀式が、雪音にとって、単なる通過儀礼ではなかったということを。


「ねえパパ、夜にも儀式があるって本当なの?」
「なんだ、ママから聴いたのか?」
「うん、もしかしたら夜の儀式もって、ママが言ってたよ」
「そうか……お前はこの村で育ったから、日の心を持っている。
でも、ママの言う通り、夜には月の心も確認するかもな」
「どちらも、持ってなかったりして…」
「バカを言うなよ…ほら、着いたぞ」


社の奥に広がる部屋は、息をひそめるような空気に包まれていた。
父に連れられて、雪音はその中へと足を踏み入れる。
「どうぞこちらへ」
世話役の女の声に、父と雪音は敷かれた敷物の上に座る。
部屋の壁には、異様な絵が並び、雪音は目を奪われる。
その中でも、ひときわ目を引いたのは、灰色の影が全てを覆いつくす絵だった。
何か、目には見えない恐ろしいものに、すべてが壊されていくような、そんな絵。
「その絵が、氣になるか?」
あがり様が、雪音に問いかけた。
「……なんだか、
怖い」
「さぁ、これより儀式を行う」
この社で焚かれるのは、古来より清めの儀式に使われてきた、神聖な麻の葉。
その煙は、空間を清め、日の心を呼ぶと伝えられていた。
透き通った感覚だけが、そこにあった。
「儀式は終わった。
麻に呼ばれなかった」
その言葉を受けて、雪音は胸が締め付けられた。
「そんな…、あがり様!これは何かの間違いでは?」 
「日の心ではなかった。
夜に、また来なさい」


家に着くと、母が機織りをしながら待っていた。
「月音、帰ったぞ…」
月音は静かに佇んで、儀式の結果を受け入れた。
「……では、夜の儀式へ?」
「あぁ、夜のことは任せた…」
「ねぇ、……何で私だけ、日の心がないのかな?」
「ママはね、雪音の中に、とてもあたたかい光を見ているのよ」
「あたたかい光?」
「そうよ」
そう言って、月を仰ぐ母の姿は、
雪音の瞳に、混じり気なき願いとして映っていた。


社の奥には、昼とは違う空気が漂っていた。
待っていたのは、あがり様ではなく、若い巫女だった。
「これより、夜の儀式を行います」
若い巫女は、清らかな赤い器を雪音に差し出す。
その中には、神聖な清水。
月の心と共鳴を起こすと伝えられていた。
「さぁ飲んで」
雪音は器を手に取り、静かに飲み干した。
苦味が口に広がり、雪音は顔をしかめた。
若い巫女は目を閉じた。
やがて、そっと目を開き、静かに言った。
「月の心との共鳴は、起きませんでした」
しばらくして、雪音の瞳が、母親の深い涙を映した。
「いりさま、信じるって……
一体何なのでしょうか?」
巫女は答えた。
「雪音さんは、日の心と月の心の芽吹きがありません。
……これは古い言い伝えですが、過去に”ひとつの心”の時代があったといいます」
「ひとつの心?」
「はい、しかし、大いなる災いによってそれは二つに分かれました。
その際に、ひとりの少女が、私たちのご先祖様を救ったと。
その少女が、何を信じていたのかは、分かりませんが、
雪音さんも、きっと何か大切なものを信じる時が来るでしょう」


社を出た雪音は、母の手を握った。
「ねぇ、ママ、
産んでくれてありがとう」

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