日の心——
外へと発する、進む力。
月の心——
内へと向かう、見聞きする力。
その均衡を保っていたのは、
真なる”ひとつの心”だった。
いつの日か、
”ひとつの心”は忘れ去られ、
千の歳月が流れた。
「雪音、産まれてきてくれて、ありがとう」
母が優しく伝えると、
「産んでくれて、ありがとう…」
雪音は形だけの返事をする。
目は合わせずに、声だけが小さくその場に消えていった。
この村では、誕生日は感謝の日と呼ばれる。
今、生きていること。
当たり前のようで、奇跡のような、そのことに。
「お月様、ご先祖様、雪音のことを見守ってくださり、ありがとうございます」
その瞼の奥には、遠く離れた月の村の情景が、そっと浮かんでいた。
母は、日の光が照らすこの村で、
月を仰ぐ、たった一人の存在だった。
「雪音、早く仕度しないと、あがり様に怒られちゃうわ」
今日は、社で行われている儀式の日でもあった。
儀式は、この村の人々にとって、誰もが通る通過儀礼だった。
「あがり様って、なんだか気難しいから苦手なんだよね」
「巫女様に向かってそんなこと言わないの」
雪音は儀式の仕度を始めた。
社の奥に佇むあがり様の姿を想像すると、
雪音の背筋が、自然と少しだけ伸びていた。
「雪音も随分と大きくなったな」
父には、儀式を通して大人の階段を登って行く、雪音の姿が見えた。
身も心も、余計なモノを脱いで行くのが、儀式の通例だった。
「では、そろそろ行くか」
村人たちは誰も知らない。
この儀式が、雪音にとって、単なる通過儀礼ではなかったということを。
「ねえパパ、夜にも儀式があるって本当なの?」
「なんだ、ママから聴いたのか?」
「うん、もしかしたら夜の儀式もって、ママが言ってたよ」
「そうか……お前はこの村で育ったから、日の心を持っている。
でも、ママの言う通り、夜には月の心も確認するかもな」
「どちらも、持ってなかったりして…」
「バカを言うなよ…ほら、着いたぞ」
社の奥に広がる部屋は、息をひそめるような空気に包まれていた。
父に連れられて、雪音はその中へと足を踏み入れる。
「どうぞこちらへ」
世話役の女の声に、父と雪音は敷かれた敷物の上に座る。
部屋の壁には、異様な絵が並び、雪音は目を奪われる。
その中でも、ひときわ目を引いたのは、灰色の影が全てを覆いつくす絵だった。
何か、目には見えない恐ろしいものに、すべてが壊されていくような、そんな絵。
「その絵が、氣になるか?」
あがり様が、雪音に問いかけた。
「……なんだか、
怖い」
「さぁ、これより儀式を行う」
この社で焚かれるのは、古来より清めの儀式に使われてきた、神聖な麻の葉。
その煙は、空間を清め、日の心を呼ぶと伝えられていた。
透き通った感覚だけが、そこにあった。
「儀式は終わった。
麻に呼ばれなかった」
その言葉を受けて、雪音は胸が締め付けられた。
「そんな…、あがり様!これは何かの間違いでは?」
「日の心ではなかった。
夜に、また来なさい」
家に着くと、母が機織りをしながら待っていた。
「月音、帰ったぞ…」
月音は静かに佇んで、儀式の結果を受け入れた。
「……では、夜の儀式へ?」
「あぁ、夜のことは任せた…」
「ねぇ、……何で私だけ、日の心がないのかな?」
「ママはね、雪音の中に、とてもあたたかい光を見ているのよ」
「あたたかい光?」
「そうよ」
そう言って、月を仰ぐ母の姿は、
雪音の瞳に、混じり気なき願いとして映っていた。
社の奥には、昼とは違う空気が漂っていた。
待っていたのは、あがり様ではなく、若い巫女だった。
「これより、夜の儀式を行います」
若い巫女は、清らかな赤い器を雪音に差し出す。
その中には、神聖な清水。
月の心と共鳴を起こすと伝えられていた。
「さぁ飲んで」
雪音は器を手に取り、静かに飲み干した。
苦味が口に広がり、雪音は顔をしかめた。
若い巫女は目を閉じた。
やがて、そっと目を開き、静かに言った。
「月の心との共鳴は、起きませんでした」
しばらくして、雪音の瞳が、母親の深い涙を映した。
「いりさま、信じるって……
一体何なのでしょうか?」
巫女は答えた。
「雪音さんは、日の心と月の心の芽吹きがありません。
……これは古い言い伝えですが、過去に”ひとつの心”の時代があったといいます」
「ひとつの心?」
「はい、しかし、大いなる災いによってそれは二つに分かれました。
その際に、ひとりの少女が、私たちのご先祖様を救ったと。
その少女が、何を信じていたのかは、分かりませんが、
雪音さんも、きっと何か大切なものを信じる時が来るでしょう」
社を出た雪音は、母の手を握った。
「ねぇ、ママ、
産んでくれてありがとう」
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